祭 神:大伊迦槌火明大神 足仲彦天皇命 息長足媛皇后 説 明:案内板を転載します。 「若江鏡神社は、平安時代の記録『延喜式』にのせられている古社のひとつで、大雷大神・足仲彦命・ 息長足姫命の三神をまつっています。 創建の年月は不明ですが、『文徳実録』の斉衡元年(854)の四月の条には、すでに『授河内国 大雷火明命従五位下』と記され、当社が従五位の社格を賜ったことがわかります。 『延喜式神名帳』には、従三位と記載され、若江城の時代に畠山氏が大いに崇敬したといわれていま す。 本殿の奥にある『鏡塚』は、鎌倉時代の石塔の一部が残されており、『神功皇后が三韓より凱旋の とき、鏡を埋めた所』と伝えています。 本殿は、銅板葺き三間社流造りですが、実際は一間社流造りの社殿を二棟つないだもので、中の間 は板壁で囲まれた相殿となり、御神体はまつられていません。 建物は、文政十一年(1828)に再建されたもので、社殿にかけられていた『斗帳』二帳ととも に、貴重な江戸時代の社殿建築として、昭和49年3月25日に市の有形文化財に指定されていま す。 また、当社には元禄一一年(1699)、雨乞いのために奉納された『大般若経600巻』が残さ れていて、同じく市の文化財に指定されています。 平成6年12月 東大阪市」 住 所:大阪府東大阪市若江南2‐3‐9 電話番号: ひとこと:昔はこのあたりまでが「河内湖」だったのでしょうか。 神功皇后が三韓から帰ってきて、難波あたりをうろうろされていたときに立ち寄られたのかもしれ ませんね。 でも、鏡を埋めるというのは、どういう意味のある行為だったのでしょう? 太陽を埋めた? それとも、皇后の魂の一部を映し、それを埋めた? そして、大雷火明命も気になります。 名前から想像すると、まぎれもない雷神でしょうね。 雷と鏡……。 そしてこの地で雨乞いが行われたということ。 どんな雨乞いの儀式が行われたのか気になります。 日本海側の伝説では、雨を降らせるために、鐘を水に沈める(あるいは沈んでいる鐘を引き上げる) というものがあります。 この「鐘」と同じ役割を、銅鐸や鉄鐸が果たしていたんじゃないかと想像することがあるんですけど、 鏡も銅鐸も、製鉄の民が関わっていたと考えるのが自然です。 ……このあたりには、どんな人たちが住んでいて、どんな生活をしていたのか。 興味深いですね。