祭 神:大己貴命 〔配祀神〕矢川枝姫命 説 明:元鍋ケ森神社にあった案内板を転載します。 「矢川神社は『延喜式神名帳』に甲賀郡八座のひとつとして記された式内社です。大己貴命と矢 川枝姫命を祭神とし、中性には杣庄内二十二ケ村の総社として『杣一之宮矢川大明神』と称さ れました。また甲賀の雨宮とも呼ばれ、雨乞い祈願の神社として知られていました。 滋賀県の指定文化財である茅葺の楼門は文明十四年(1482)に建てられたもので、雨が降った お礼に大和国山辺郡五十ケ村から寄進されたと伝わります。 本殿は甲賀地方でも特筆すべき大型の社殿で、近江八幡の大工・高木但馬により宝暦五年(1755) に造営されたものであり、三間社前室付流造の建造物として市の指定文化財となっています。 さらに境内地は近隣の五つの城跡とともに国指定史跡『甲賀郡中惣遺跡群』のひとつに指定さ れています。元亀二年(1571)の山中文書によれば、矢川社と対岸の新宮社(甲南町新治)が 飯道寺(信楽町宮町)と争論に及んだ際、甲賀郡中惣から選出された奉行衆により、『矢河下 馬』前で裁定が行われました。甲賀の侍衆たちがこうした鎮守社を合議の場とし、神前で結束 を固め、地域を治めるための拠り所としたと考えられます。中世文書に描かれたそのままの世 界を今もみることができます」 「当社は奈良時代の天平年間に甲賀杣・矢川津主語の神社として創建されたと伝え、平安時代の 延喜式神名帳に甲賀八座の筆頭の神社として登載された式内の古社である。ちゅうせいを通じ て甲賀武士団の崇敬を受け、甲賀郡中惣の参会が、しばしば当社において行われた。 江戸時代には水口藩の崇敬社に定められ、社殿の造営・境内の整備が薦められた。天保十三年 の空き、幕府の検地に反対して当社の社頭に決起した天保一揆(甲賀騒動)は世に広く知られ ている。 当社の氏子は寺庄・葛木・深川・深川市場・稗谷・森尻・宝木・杉谷・塩野の九大字に及び、 崇敬社区域には希望ケ丘・耕心区・ニューポリス区がある。 当社の境内はおよそ一万三千坪を数え、杉・檜を主とする美林は平地に残存する広大な鎮守の 森として著名である」 住 所:滋賀県甲賀市甲南町森尻310 電話番号: ひとこと:伊賀忍者の聖地で敢国神社に対し、甲賀忍者の聖地はここ矢川神社と考えても良いのではない かと思います。 本来の御祭神は矢川枝姫命なのでしょうね、多分。 そして雨乞いの神社である……と。 いろいろ妄想が広がりますね~……。