祭 神:国作大己貴命(大国主命・大汝命) 説 明:ご由緒を転記します。 「夜比良神社と伊和神社 夜比良神社の拝殿に南方殿と書かれた扁額が架けられているように、本社を 南方殿と呼ぶことがあります。これに対して宍粟郡一の宮の伊和神社を北方 殿と呼びます。これは夜比良神社と伊和神社の御祭神が同神であるだけでな く、古代播磨国で勢力を誇っていた豪族の勢力の拠点としての意味をもって いたと考えられます。 すなわち揖保川流域において北方の拠点が伊和神社であり、南方の拠点が夜 比良神社であったことが知られます。つまり『いひぼの里』(揖保里・粒里) とよばれていた古代風土記の時代から、揖保川水系における、南部の流域の 守護神として尊崇されていたことがわかります。 古代日本の文献に見られる夜比良神社 『類聚国史』(892年成立)という日本の古代史を研究するための貴重な書 物があります。『類聚国史』は、学問の神様として有名な菅原道真公が、当 時の歴史や制度について編集されたものです。この書物には、五畿七道の 267社の神社の階位がまとめられていますう。このうち播磨国では夜比良 神社の北方殿である伊和神社と粒坐天照神社の二社の記載が見られます。奈 良時代の初期に編纂された『播磨国風土記』の世界の物語りとともに、夜比 良神社が播磨国で重用な地位を占めていた様子がうかがえる史料です。 そして10世紀初頭(平安時代)の醍醐天皇の時代に編纂された『延喜式』 『神名帳』には、夜比良神社の名前が見られます。『式内社』という呼び方は この延喜式に記載されているという意味ですが、このことは、10世紀初め にはすでに古社としての歴史と格式をもつ神社となっていたことを物語って います。 また古代にあっては、夜比良神社一帯は、揖保(伊比奉)郷と呼ばれていま した。この揖保郷には、『和名抄』(承平年間・931〜937成立)に見 られる神戸郷(旧神戸村)も含まれていたことが次の史料によって推察され ます。 東大寺領畠注進状『揖西郡揖保郷神戸村畠八町弐段・・・』(東大寺文書/平安 遺文929) 明治維新以前は、旧神戸村十六箇村が、夜比良神社の氏子域であったことと 符合する史料として、あるいは古代揖保川流域の歴史を知るうえでも貴重な 文書です。 夜比良神社と揖保川の流れ 揖保川の堤防が現在のように強固なものになる以前、揖保川は西に東に揺れ 動いて流れていました。 11世紀のころ、奈良時代からの行政区画であった揖保郡が揖東郡と揖西郡 に分かれました。両郡の境は当時の揖保川であったと考えられます。当時の 揖保川はおおよそ今の浦上用水の線を流れていたと思定されています。夜比 良神社はその右岸、揖西郡にあったのです。 鎌倉時代には揖保川の右岸に上揖保荘・下揖保荘と呼ばれる荘園が成立しま した。上揖保荘は龍野町、日山、小神などが該当します。いっぽう下揖保荘 の荘域は、龍野市揖保町の揖保上・揖保中・今市と揖保郡揖保川の野田・新 在家・正條を含む地域でした。そしてこの下揖保荘の鎮守の社として崇敬を 集めていたのが夜比良神社でした。このうち野田以外の村々は、現在に至る まで夜比良神社の氏子として、夜比良神社を崇め護り続けています。 現在、氏子域が揖保川の左岸・右岸にまたがってあり、やや奇異に思えます が、当初は氏子域はすべて揖保川右岸にあったのです。それが永正十三年 (1528〜31)の洪水で揖保川の本流が西に移り、今日みられる流れと なったために、夜比良神社の氏子域が分断されることになったのです。 このように、氏子域が揖保川によって分断された後も、夜比良神社と氏子の 結びつきは堅く、正條や新在家の人々は渡し舟(夜比良の渡し)を利用し、 参詣を怠りませんでした。 夜比良神社と赤松氏 中世の播磨国を支配したのは、赤松氏でした。赤松氏は下揖保荘の鎮守であ る夜比良神社を守護神とし、『八尋の神』と言い、厚く崇敬しました。また、 『神式は赤松政村これを定む』と今に伝えられています。 鎌倉時代には野田・新在家・正條・揖保上・揖保中・今市を含む地域には、 下揖保荘が成立しました。 この下揖保荘の領家職は冷泉家・山科家などの交替がありましたが、延徳三 (1491年)には、山科家から赤松政秀が半分代官職に任じられています。 この下揖保荘には関所があって、関銭収入があったこと、当時、正條村がす でに宿場町的性格をもっていてかなりのにぎわいを見せていたことがわかっ ています。赤松氏にとって富裕な下揖保荘は、魅力のある地域であったので す。 また記録のうえでは、八枚(八尋)社刀踊りなどの故事があったと言われて いますが、今では残念ながら途絶えてしまいました。 やひら手を 取りにし神も あらましを きねか鼓の 音は絶せぬ 赤松 広秀(鶏籠山上にあった古龍野城の最後の城主)」 住 所:兵庫県たつの市揖保町揖保上271−1 電話番号:0791−67−8027 ひとこと:赤松氏と夜比良神社の説明がありますが、私がはじめてこの地域にやってき たのは、まさに、赤松円心を訪ねてのことでした。 赤松円心は南北朝時代の武士です。 私は、小学館から出ている、「太平記」を一応通読してるんです。 小学館の古典は、現代語訳がついてます。 ・・・が、なにがなんだかもう(T_T) なにしろあぁた。 武将たちが、あっちへつくやら、こっちへつくやら、んもう、しっちゃかめ っちゃか。 その上、愛称・通称・本名・法名・役名など、呼ばれ方はさまざま。 一人の人物を表す言葉が5通りたらあるんですから、もう、なにがなにやら わかりません。 それだけじゃありません。 反対のこともあるわけです。 つまり、同じ名で呼ばれる別人が。 たとえば、三位殿というと、普通は、後村上天皇の葉はである阿野廉子を指 すのだと思い込んでたのですが、護良親王の母も三位殿と表現されてます。 んもう、有力な妃が二人も三位殿では話しの流れがわかるもんか!! ・・・ということで、しっちゃかめっちゃかの話しの中。 赤松円心は、はじめ、足利尊氏や楠木正成公などと一緒に、後醍醐天皇を擁 して、北条と戦います。 しかし、建武の新政が始まると、円心はまったく優遇されませんでした。 それは、阿野廉子が政事に口を出し、貴族を厚く遇して、地方武士を省みな かったことが原因だといわれますが、実際のところはよくわかりません。 ただ、そのことを哀しんだ赤松円心は、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻す と、尊氏に従いました。 最初から最後まで後醍醐天皇に従った武将としては、楠木正成公・北畠顕家 公・新田義貞公などが知られていますが、 赤松円心のように、天皇方から足利方へと寝返った武将は、いかほどもいた のです。 ある、南朝フリークの話しでは、後醍醐天皇が隠岐から吉野へとやってくる 道すがら、立ち寄ったり助力を求めたりした場所は、山伏の拠点であること が多いとか。 赤松氏と山伏の関係は知れません。 そして、この夜比良神社と修験の関係もはっきりはしません。 しかし・・・気になるのは、この「夜比良(やひら)」という社名です。 赤松氏が、「八尋の神」と称えたというごとく、 「夜比良(やひら)」は、「八尋(やひろ)」と通じます。 しかし、それと同時に、 「夜比良」は、「黄泉津比良坂(よもつひらさか)」を連想させはしないでし ょうか。 この神社のご祭神、国作大己貴神は、出雲国作りに深く関わった神でありま す。 しかし、それと同時に、冥界の王でもあることも知られています。 大国主神は兄たちの仕打ちから逃れて、根の国、つまり黄泉に隠れます。 そして、その後、出雲国づくりを成し遂げ、高天原に降伏して、冥界の王と なるのですが・・・。 黄泉とこの世をつなぐ坂を、「黄泉比良坂」と呼び、出雲近くにこの名の坂 が存在するんです。 島根県八束郡東出雲町揖屋町。 古代、ここに黄泉へ通じる坂が口開けていたと考えられています。 当然、それは、冥界の王である大国主命へと通じる坂でもあったのではない でしょうか。 その坂の名に通じる神社。 もしかしたら、修験と関係のある神社が、冥界の王への道を意味する坂と似 た名を持っている。 私は、そのことが気になって仕方ありません。