祭 神:国常立尊 説 明:ご由緒書を引用します 「創始年代は詳らかでないが、『興福寺官務牒疏』に『山津照神、在坂田郡箕浦之東能登瀬。供 僧三人。神主一人。神人二人。宣化天皇三戌年午年(537)、影向勧請。金勝寺四箇處鎮守 之其一也』とあり、延喜式の小社に列せられた古謝である。『神祇資料』によると、『山津照 神社。今能登瀬村にあり、称徳天皇天平神護二年(766)、近江地六戸を神封に充奉る』と ある。 天武天皇紀四年(676)正月丙子朔日奉幣あり、文徳天皇仁寿元年(851)正月正六位を 進められ、清和天皇の貞観八年(866)には正世に下に叙せられ、宇多天皇の寛平九年(8 98)国家鎮護の誓願をさせるため、金勝寺の鎮守として近江国の国司から、この年に年分度 者二人に許可を与え、それぞれ飯道名神(信楽)と山津照名神とに仕えさせたい旨奏上したと ころ、朝廷もその誓願を許可された。 又、醍醐天皇の延長六年(928)、位記の印を請け、光厳天皇の暦応二年(1339)祈願 あって本社修造をされ、後光厳天皇の文和三年(1354)にも御祈願されるなど、古来朝廷 の尊崇篤く、社領の寄進などがしばしば行われた。中世、青木大梵天王社、あるいは青木の宮 と称せられていたが、明治以降はもとの山津照神社に復称し、明治十四年(1881)二月、 郷者に列し更に対象十年(1921)二月縣社に昇格する。近郷の総社として青木さんの呼称 で親しまれ、二十七ヶ村(現在は二十ヶ村)の氏神として崇敬されている。 境内にある古墳は、明治十五年(1882)、参道拡張工事の発見際されたもので、神功皇后 の御陵候補地として当社と深い関係がある。」 住 所:滋賀県米原市能登瀬390 電話番号: ひとこと:このあたりは息長氏の本拠地だったようですから、神功皇后が関わるのは、不思議なことじゃ ないですね。 山の上にぽっこりと祠が建てられていて、なんだか愛らしい雰囲気の神社でした。 それ以外の感想は今のところないので、思いついたら加筆します。