祭 神:素戔嗚尊 説 明:境内の案内板を引用します。 「当社は、長徳二年(996)花山法皇諸国御巡遊の砌地形が紀州熊野に似たる ものあるを見、その導物である佛眼上人に命じ『くず谷』山に社殿を造営され、 熊野権現を祀り神領地を寄進せらる。鎌倉時代に至り熊野神の進行は全国的に 普及し、また瘡の神として遠来よりの参拝者も多くあったと伝へられる。永正 丙寅九月社殿が再建されたが、天正七年荒木攝津守村重の兵戦により神殿は破 壊せられ、神領地も亡失した。慶安二年八月十日(1649)漸く老杉古松の 現在の地に再建された。本殿は檜皮葺相殿造にして、拝殿、絵馬堂、宝庫、社 務所を存す。往古は葛上神祠と称し、後馬頭天王と呼ばれ明治三年今の社名に 改められる。 明治五年村者に列し、同四十年愛宕神社を合祀し、同四十一年十二月神饌幣帛 共進社に指定せらる。御旅所はもと葛上神祠の地にあったが、昭和三十八年社 殿が改修されたとき、境内に移された。昭和四十七年参集殿、台額庫が建立さ れ、同五十四年大鳥居、注連鳥居が奉献された。境内に愛宕社、龍神宮、境外 に白滝稲荷社がある。 満家内安全がもたらされますようねがっています。 (この岩が狼に似ているところから、別名狼岩とも云われています)」 住 所:大阪府豊中市熊野町3‐10‐1 電話番号: ひとこと:この神社に参拝したのは、御由緒に興味があったからではありません。 こうやって境内の案内板を見たら、「瘡の神」とあり、多少そそられるんです が、それは素戔嗚=疫病の神であるという信仰からでしょう。 私がこの神社に興味を持ったのは、三島由紀夫の『愛の渇き』に、この神社の お祭りが非常に印象的に描かれているからです。 「このとき再び獅子頭は、群衆からぬきん出てあたりを睥睨するかのように思わ れたが、それは忽ち狂おしく方向を展示、緑の鬣をひるがえして見物のなかへ 分け入った。拝殿正門の鳥居をめざして駆けるあとから、半裸の若者たちが雪 崩を打った。 悦子の足は、彼女の意志の羈絆を離れて、このひしめき合う一団のあとを追っ た。うしろのほうで謙輔が、悦子さん悦子さんと呼ぶ。千恵子らしいけたたま しい笑い声も、これにまじってきこえる。悦子は振向かない。彼女は内面的な ものがあいまいな不安定な泥濘の中から立上って、彼女の外面へ、ほとんど膂 力のような一種の肉体的な力になってひらめき出るのを感じた。人生には何事 も可能であるかのように信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間におそらく人 は普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度忘却の底 に横たわったのちも、折にふれては蘇って、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき 豊穣さを、再びわれわれに向って暗示するのであるが、運命的なこの瞬間を避 けることは誰にもできず、そのためにどんな人間も自分の目が見得る以上のも のを見てしまったという不幸を避けえないのである。……悦子は今なら出来な いことは何一つなかった。頬は火のようである。無表情な群衆に押されながら、 正門鳥居のほうへ半ばつまずきながら駆けるうちに、彼女はほとんど最前列に 在った。襷をかけた世話役の団扇が胸に当たっても、その打撃は一向に感じら れない。麻痺状態とはげしい昂奮とがせめぎ合っていたのである。」 悦子は浮気を繰り返す夫を恐ろしい疫病で亡くした後、絶望と諦観の中で生き ています。 そんな彼女が再び恋したのは、美しい獣、ただただ雄として美しい男、三郎で した。 純粋な「雄」である三郎に惹かれる悦子にシンパシーを感じる(笑) 神社の境内に立ち、 「ここで、ドラマが繰り広げられた」 と想像してみましたが、可愛らしい着物を着た少女への祝詞が奏上される、長 閑な景色の中では無理でした(笑) でも、この場に立ててよかった。 そんなところです。はい。