伝 説:ホムチワケの皇子は、母のことをよくは覚えていませんでした。 ただ、ごく幼い頃、頬と瞳に明々と炎を映した、どこか春先のつら らを思わせる女を見た記憶があるのですが、それが母なのだと教え てくれる人は誰もいなかったのです。 というのも彼は、生まれてこの方、一度たりとも言葉を話さなかっ たからです。 言葉を話すということがどういうことなのか、彼にはわかりません でした。 父やその側近の男たちが、なにやら口を開けて音を出していること。 そしてそのことによってお互いの意志を伝達していることはなんと なくわかりました。 しかし、ホムチワケは、なんのために彼らが、まったくの他人に対 して自分の意志を伝えたいと願うのかわからなかったのです。 「あいつもこいつも、俺のことなんてわかろうともしない。 所詮他人じゃないか」 だからホムチワケはいつまでたっても言葉を覚えやしませんでした。 ある秋の暮れのこと、ホムチワケは東の空を眺めていました。 あかね色に染まり始めた空の向こうに、なにやら心をときめかす点 が次第に大きくなってきたのを、そのとき彼は認めたのです。 「あぁ」 思わず大きな声が出て、しまったと思った途端、父王が驚いたよう に彼を振り返ったことに気づきました。 「ホムチワケ、今叫んだのはそなたか」 慌てて素知らぬふりをしても、「役立たず」と思われていたホムチ ワケを、いつも離さずそばに置き、生涯をかけて愛した人の忘れ形 見として彼を見つめ続けてきた父王は決してごまかされませんでし た。 「たれか、あの白い鳥を捕らえてこよ」 慈愛深く控えめで、賢政を敷いた天皇を慕う家臣は多くおりました。 それ故、この難業に挑んだ者たちは、なんら下心があったわけでは なく、ただ王の何より愛する皇子のためにという熱心で一途な思い があったのみでした。 そしてそれがために、この、至難と思われた仕事は、いとも簡単に 成し遂げられました。 アマユカワタナは、現在の鳥取の辺りまで鳥を追いかけ続け、つい にはそれを捕らえたのです。 父王はそれを皇子に授けました。 「そなたは言葉を持っていないのではない。しゃべりたいという気持 ちを持っていなかっただけだ。私にはそれがわかる。だが、父のた めと思うて、何かしゃべってはくれぬか。そなたの母を偲ばせる唯 一の存在として、私を可愛そうとは思ってはくれぬか」 ホムチワケにとって、母という言葉は、何か恐ろしい記憶を呼び起 こすいやな呪文のように感じました。 しかし、この日から、彼は、「しゃべり始めた」と、記紀には記さ れています。 蛇 足:白鳥の古名は、「鵠(くぐい)」と言います。 この大きくて輝く白い羽根を持つ鳥は、空を翔ける存在の中でも際 だっていたのでしょう。 西洋でも、この鳥は、死期を悟って悲しい鳴き声を上げると信じら れていました。 人の心に、何かを訴えかける力のある鳥なのでしょう。 写真は、厳密に言えば「コブハクチョウ」です。 人間が近づいても怖がらないのは、餌を与えられているからでしょ う。 来年もまた、この池にやってくるのでしょうね。 参考文献等:日本書紀・古事記 情報提供者: