祭 神:素盞嗚尊 説 明:境内案内を転載します。 「当社の創建は不詳であるが、皇極天皇の御代、『秦河勝公』が、蘇我入鹿の難 を避け、坂越浦に隠遁された時、『河勝公』自ら当地塩屋字正面荒神に、五穀 の神として素盞鳴尊を勧請されたのが、当社の創建であると伝えられている。 『延宝三年(『1675)四月社頭一宇再興セリ』『正徳五年(1715)社殿 大破ニ付再建』『寛政十二年(1800)三月一宇再興セリ』と棟札にあり、 それぞれの時代において、地元の庄屋・氏子崇敬者の尊崇心により、幾度も再 建・修復が行われ、当社が護持されてきた事が察せられる。 広く塩屋地域の氏神として、氏子崇敬者の生業、家庭の安全を守護し現在に至 る。 氏子崇敬者は、当社を別称『正面さん』と親しみを込めて称え、敬神の念篤く 当社を敬っている。」 住 所:兵庫県赤穂市塩屋2943 電話番号: ひとこと:「正面」というのは、どうやら地名でしょうか。 地図で見ると、ほぼ真東に、坂越は生島が浮かんでいます。 秦河勝公がこの地に荒神を勧請したのは、何か意味があったのでしょう。 荒神社の社殿は南西を向いていたそうですが・・・。 荒神社から南西に目をやると・・・岡山県日生町の岬がありますね。 う〜む、坂越・日生ともに、牡蠣の名産地ですが・・・、関係ないか(^^ゞ 当時の社殿の向きがわからないので、「正面」にこだわるのはここまでにして おきましょう。 さて、赤穂市近辺には、荒神社が散在します。 そして、それは、金春禅竹の明宿集を思い出させますね。 「日本思想大系24」所載の「明宿集」から引っ張ってきましょう。 「業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空船ニ乗り、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨の国 南波尺師ノ浦に寄ル。蚕人船ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当初近離 ニ憑キ祟リ給シカバ、大キニ荒ル、神ト申ス」 尺師=しゃくし=さこし=坂越ということで、まさに、赤穂市坂越その場所に、 秦河勝公が漂着したとしているのがわかりますでしょうか。 この、荒神社の由緒にある、「秦河勝公が坂越浦に隠遁された」という説明と 合致しますよね。 しかし、その続きが非常にきな臭い。 「当初、近離に、憑き祟り給いしかば、大きに荒る、神と申す」 これだけを読むと、秦河勝公がこの地で何かに憑いて、祟った。 そして、大いに荒らぶって、神となった・・・と解釈してしまいます。 しかし・・・。 この日、坂越に鎮座する大避神社にも、再度参拝しました。 この神社の説明によれば、河勝公が辿り着いたのは、大避神社の正面に浮かぶ、 生島。 荒神社のほぼ真東に存在すると前記した、あの島です。 神社の説明によれば、 「古来生神は神地であって、樹木を伐る事はもちろん島内に入ることも恐れられ、 江戸時代から今日でも幾話かの祟り伝承が郷人に信じられている。」 とあります。 しかし、神社の鳥居前には、生島についてこう説明されていました。 「生島 坂越には、古くから海辺で暮らす人々が住んでいました。それは、生島によっ てこの港が荒波から守られていたからです。人々は生島を神として祀り、豊か な海の恵みに感謝してきました。また、島には秦河勝公の墓と伝えられる古墳 があり、神聖な場所とされてきました。人の入ることを禁じたために、生島は 今でも原始林のままです。」 「坂越の船祭り 海に育まれた坂越の人々は、お祭りにも船を使いました。毎年10月に行われ る船祭りは、大避神社から神霊を生島へ渡すお祭りです。坂越が船を使った交 易で栄えたころ、船乗りたちは、今のような勇壮な船祭りを作り上げました。 絵馬(神社に飾られている)や石灯籠を見れば、そのころ港に浮かんでいた船 の名前を知ることができます。」 「大避神社 この神社は、遠い昔から坂越の海と人とを見守り続けてきました。祀られてい る秦河勝公は、飛鳥時代に聖徳太子とともに政治にあたりました。聖徳太子の 死後、秦河勝は坂越へ移り住み、千種川沿いを開拓したと伝えられています。 また、秦河勝は能楽(鎌倉時代の演劇)の守り神としても知られ、神社には古 い舞楽面が残されています。」 どうでしょう。 神社由緒に現れる、秦河勝公や生島の説明と、何か食い違いがありますね。 生島は祟り話しの伝わる恐ろしい島ではなく、実際は、荒波から坂越を守る防 波堤でありました。 秦河勝公は祟り神ではなく、千種川沿いを開拓した、国土開拓の英雄でした。 なぜこのような食い違いが・・・。 大避神社の摂社にも、「荒神社」があります。 本殿の右側の階段を登ったところ・・・つまり、本殿よりも高い場所にあり、 そこから見下ろすと、生島の全容が一目でわかります。 今は、樹木が邪魔して、ちょっとはっきりとは見えませんけどね(^^ゞ しかし、どうやらこの「摂社・荒神社」は、大避のお社の中でも、重要な摂社 ではないかという気がしたのでした。 そして、ここ、塩屋の荒神社の説明を読むと、秦河勝公が自ら素戔鳴尊を勧請 したとあるではありませんか・・・。 もう一度、明宿集をみてみましょう。 「当初、近離に、憑き祟り給いしかば、大きに荒る、神と申す」 もしやこれは・・・。 秦河勝公が坂越に隠遁した当初、近場で何か大きな厄災があったので、河勝公 は、 「大いなる荒神」 を勧請した。 よって、神と崇められた。 ・・・そういう意味だったりして(^^ゞ 事実はわかりません。 しかし、秦河勝公が、「荒神」をなんらかの理由で非常に尊崇されていたらし きことは推測できます。 海の人々の住んだという坂越。 そこへやってきた、「素盞鳴尊」と「荒神」を斎きまつる、「能楽の守り神・ 秦河勝公」。 そして、「海の守り神・生島」。 単なる迫害された祟り神ではない、秦河勝公の姿が見えてきはしませんでしょ うか。 前回、当地を訪れたとき、赤穂市の隣は加古川在住の知人が、 「赤穂市は峠を越えなければいけない場所だったため、他の国との交流があまり ありませんでした。だから、赤穂市の文化は独特で、言葉もかなり違います」 と教えてくれました。 島に荒波から守られた隠れ里。 そこに隠遁した、大いなる才能・秦河勝公。 秦河勝公がこの地で祟り荒れるはずがありません。 むしろ、この地を守らんがために、伝承をつくり、人々を遠ざけたのではない かと思えてなりません。 荒神社を勧請したのも、この地の五穀豊穣を祈らんがため。 能楽の神と仰がれた風雅な河勝公のことですから、この地に独特で優雅な文化 が根付いていたのは間違いなさそうです。 秦河勝公の、準備周到かつ雅で、穏やかな人柄は、坂越湾に浮かぶ生島の姿と 重なりはしませんでしょうか。