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恩智神社

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  祭  神:大御食津彦神(天児屋根命の五世の孫)
       大御食津姫神(伊勢神宮外宮の御祭神豊受姫大神異名同神)
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「当社の創建は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国を御
       守護のためにお祀りされた神社で国内でも有数の古社であり、後に延喜式内
       名神大社に列する神社である。
      『恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉圭行神事云々』
       と記されている(総国風土記)奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建さ
       れてより、藤原氏の祖神である『天児屋根命』を常陸国『現香取神宮』より
       御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年間に枚岡(枚岡神
       社)を経て奈良(春日大社)に祀った。従って当社は元春日と呼ばれる所以
       である。
       神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道
       案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に
       朝廷から七郷を賜った。以来、朝廷からの崇敬厚く、持統天皇の元年(68
       9)冬十月に行幸されて以来、称徳天皇(第四十八代)天平神護景雲二年
      (768)には、河内、丹後、播磨、美作、若狭の地三七戸を神封に充てられ、
       文徳天皇(第五十五代)嘉祥三年(850)十月に正三位、清和天皇(第五
       十六代)貞観元年(859)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大
       明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式、名神帳に登載される。以後醍
       醐天皇、村上天皇の御字(延喜及び応和三年)の大旱ばつに勅使参向して祈
       雨をされ、その霊験があり、それぞれ蘇生したと伝わる。
       また、一條天皇正暦五年(994)四月中臣氏を宣命使として幣帛を奉り、
       疫病等の災難除けを祈った。
       これが当神社の大祓神事(夏祭・御祓い祭)の始まりとされている。
       尚、三代実録によれば当神社は下水分社といわれている。これは建水分神社
      (千早赤阪村)上水分社、美具久留御魂神社を中水分社といわれ、三社とも、
       楠一族が崇拝した神社である。
       明治維新前迄は、奈良春日社の猿楽は当神社が受けもち、この猿楽座に対し
       て、春日社より米七石五斗と金若干が奉納されていた。
       社殿は、当初天王森(現頓宮)に建立されていたが建武年間に恩地左近公恩
       智城築城の折、社殿より上方にあるのは不敬として現在の地恩智山上に奉遷
       され、現在に至っている。
       本殿の建築様式は、王子造り(流れ造りの一種)で極めて珍しい貴重な建築
       様式である。拝殿は、両部集合造で神仏混淆の造りとして、それぞれ江戸時
       代末期に地元辻野大工大長によって建て替えられたものである。」
  住  所:大阪府八尾市恩智中町5−10
  電話番号:0729−43−7059
  ひとこと:八尾市立歴史民族資料館の「寺院と神社の成り立ち」によりますと、
      「和銅三年、玉祖神が周防から住吉浦に渡来し、住吉大明神に鎮座地を乞うと、
       恩智神は土地をたくさん持っているから、河内国へ行ってみなさい、と言っ
       た、という話が恩智大明神縁起に出ている」
       ・・・とあります。

       いや、恩智大明神縁起も、件の冊子には記載されてるんですが、漢文白分な
       んですわ(^^ゞ
       そんなもんで、又聞き調(笑)

       ・・・ということで、古くはかなり広大な社領であったことが伺えます。

       さて、ご由緒にもありますとおり、この神社は、上水分たる建水分神社、中
       水分たる美具久留御魂神社と共に、「下水分」として崇拝され、また、楠木
       正成公の篤い崇敬を受けた神社です。

       楠木正成公で「恩智」といえば、「恩智左近」という名前が浮かぶ方も多い
       と思います。
       恩智左近とは、楠木正成公の右腕と言える人物ですよね。

       宮司さんに伺ったところ、
       この恩智左近、なんと、恩智神社の神官なのだそうです。
       残念ながら、宮司さんは恩智左近の子孫というわけではないのだそうですが、
       なにしろ、楠公さんとこの神社の深い関係が伺えます。

       さて、この日、宮司さんから、とても面白いお話を何点か伺いました。

       最初に、住吉大社との関係。
       玉祖神渡来時のやりとりを見れば、住吉大社とは、何か、「盟友」であった
       かのような印象を受けますが、それは強ちはずれてはいないようです。

       例えば、江戸時代まで、摂津の住吉大社と、河内の恩智神社は、合同で夏祭
       を催行されていたらしいのです。

       六月二十七日、住吉大社も恩智神社も、摂津と河内の国境である、平野鞍作
       のお旅所まで神輿を巡行したそうです。
       そして、その後、住吉浦へ行き禊をされ、そして、各々の神社へ戻って、そ
       こでまた夏祭りが行われたのだとか。
       ちなみに、このお祭、一週間くらいかけて行われたそうです。

       また、神功皇后、三韓侵攻の時、住吉・恩智両神が道案内をした、とありま
       すが、詳しくは、海路は住吉神が、陸路は恩智神が先導したのだそうです。
       そして、先導するとき、それぞれの神は兎の姿に変じたのだそうです。
       それで、恩智神社と兎のご縁は深いんですね。

       この神社において、ご縁の深い動物といえば、兎と並んで龍です。
       龍といえば、水と関係が深いですから、「水分」とされた、恩智神社には、
       ぴったりかもしれません。
       また、宮司さんがおっしゃるには、「卯」は、東のことであり、太陽のこと
       も意味するのではないか、ということで、そうすると、この神社は、「水と
       太陽」という、人間の生の営みに最も大事な要素とそれぞれご縁が深いので
       すね。

       お祭も、「卯辰」の日に行われたりします。

       そんなことと何か関係があるのでしょうか・・・。
       社務所の横に、今も清らかなお水が湧き出ているのですが、この水、不思議
       なことに、雨の「前日」に、赤茶けて濁るんだとか。
       雨の翌日ならなんの不思議もないんですけどね・・・。
       前日に・・・。気圧の関係・・・かもしれませんが・・・。
       龍神は今でもこの神社に棲んでおられるのかもしれないですね。

       さて、しかしなんと言っても、
      「祓いの神社・恩智神社」を語るとき、忘れてはならぬのが、毎年十一月二十
       四日に斎行される「御供所神事」でしょう。

       この神事では、朝八時ごろから境内において、お餅を搗かれます。
       そのお餅は、作法に従って形を整えられ、最終的には、人の形になるんです。
      「御供所神事」の詳細なレポートはこちら。 

       この「人形(ひとがた)」は、「熟饌」にあたり、
       まず神様に供えられ、その後、お神楽の奉納をされた方達が食べられるんだ
       そうで・・・。
       これがなんだか意味深です。

       宮司さんのお話だと、この「人形」は、祓えの人形と同じ意味があるそうな
       んですが・・・。
       私が知っている「祓えの人形」は、そこに罪穢れを移した後、その人形は燃
       やされてしまいます。
       しかし、この神社の「人形」は、人が食べてしまうんです。

       秋祭りで、神楽奉納(つまり、初穂料を納めて神楽を見学)すると分けてい
       ただけるんです。
       それが、これ。
       脚の部分か腕の部分にあたるようです。

       そうすると、その罪穢れはどうなっちゃうんでしょうか?
       神の供物として捧げられたとき、神により祓われてしまっているので、人間
       が口にする時、その人形は、既に清められているのかもしれません。

       しかし・・・。
       なんだか、私には、「人間が食べる」という行為は、いわゆる「燃やす」と
       いうことに該当するんじゃないか、と思えます。

       まぁ、人間は、食べ物を燃やしてエネルギーにしてるわけで・・・、そうい
       う意味では、「燃やし」てるわけですよね(^^ゞ

       ちなみに、奈良市の倭文神社では、お餅や里芋などで「人身御供」と呼ばれ
       る神饌を作り、それを神に捧げます。
       これは、古、蛇に子供を人身御供に差し出していたことの替わりだといわれ
       ています。       

       そこで、宮司さんに、
      「お餅の人形は、この人身御供ととても似ていますよね?」
       と伺って見ると、
      「似てますね」
       と言うことなんですが、この神社に、人身御供の伝承は残ってないようです。

       と考えると、この「人形」には、人身御供の意味はない、ということになりま
       すから、「人身御供を人間が食べる」という恐ろしい考えには結び付きません
       のでご安心を(誰も心配してないか(笑))。

       しかし、やっぱり、「罪穢れを移した人形」を人が食べるというのは、すごく
       珍しいです。

       ただ、目を中東に向けると、なんとなく似た話が浮かびます。

       イエス・キリストのことを、「メシア」と呼ぶことをご存知の方は多いでしょ
       う。
       メシアは、日本語で、「救世主」と訳されていることが多いように見受けます
       が、もともとは、「贖罪者」という意味だ・・・と、宗教学で学んだのですが、
       それが何語だったかさえ思い出せません(^^ゞ
       ギリシャ語か、ヘブライ語だと思うんですけどね・・・(~_~)

       まぁ、とにかく、キリストは、「教祖」「伝道者」としての顔よりも、「贖罪
       者」の顔が大事だと考えても良いでしょう。

      「贖罪者」とは、文字通り、「罪」を「贖(あがな)う」「者」のこと。

       キリストが十字架に架けられたことは、単なる「殉教」だけを意味するのでは
       ありません。
       キリストは、人類の「原罪」をその身に移し、死ぬことで、人類の「原罪」を
       贖ったわけです。

       つまり、キリストは、自ら、「人形」になった、と表現したら、クリスチャン
       の方々は怒るかな・・・(^^ゞ

       では、グレートブリテン島に目を向けてみましょう。
       アイルランドの作家、フィオナ・マクラウドの作品に、「罪を喰う人」という
       作品があります。

       このお話については、何度か紹介してしまっているのですが、今一度簡単に説
       明すると、

       ケルトでは、
       罪ある人が亡くなった時、その罪は消えないため、海に捨てなければならない、
       と考えられていました。

       でも、罪だけを海に捨てることはできません。
       ですから、まず、「罪」を、パンに移します。
      (ちなみに、キリストの肉体はパンに、キリストの血はワインに見立てられます
       よね)
       そして、「選ばれた者」が、そのパンを食べ、罪を海に運び、捨てるのです。
       その「選ばれた者」は、その後、村へ戻ることは許されません。

       ・・・つまり、この「選ばれた者」「罪を喰う人」は、海で死なねばならない
       ということなのかもしれません・・・。
       キリストと同じように、その身に罪を引き受けて。

       そんなことを考えると、
       誰の命も損ぜず、食べ物もエネルギーに変えることができ、そして祓いもでき
       る、恩智神社の「御供所神事」は、素晴らしいですね(#^.^#)

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