祭 神:阿迦留姫命 住吉大神 説 明:境内案内を転載します。 「祭神は阿迦留姫命と住吉大神が鎮座されている。 神崎川と中津川との間のデルタの一つで難波八十島の比売島(ひめじま)の産土 神をまつったと考えられる。 その『ひめ』がなまって『ひえ(稗島)』とよばれ『へじま』と発音していた。 姫島は『摂津国風土記逸文』には、新羅の国に姫島があり、彼女は夫のもとを遁 れてきて、しばらくは竹斯の国の伊波比の比売島に住んだ。やがて彼女は『この 島はまだ遠くない。もしこの島にいれば、夫(アメノヒボコ)が尋ねてくるだろ う』といって、また移り難波の比売島にとどまったとある。 当社の祭神『阿迦留姫命』はアカルヒメ信仰をもつアカルヒメ族とでも呼ぶべき 部族が朝鮮半島からおそらく伊都を経へ国束の姫島さらに難波の姫島へ移動して 大阪湾一帯はこの部族の渡来によって開け始めていったとされている。 万葉集の当地に関する歌があり、明治三十三年に歌碑を建立したものである。 “妹が名は 千代に流れん 姫島の 小松がうれにこけむすまでに”」 住 所:大阪府大阪市西淀川区姫島4−14−2 電話番号: ひとこと:境内案内板に説明がありますが、とりあえず、摂津国風土記逸文の内容を、もう 一度転記しましょう。 「摂津の国の風土記にいう、・・・比売島の松原。昔、軽島の豊阿伎羅の宮に天下 をお治めになった天皇(応神天皇)のみ世に、新羅の国に女神があった。その夫 からのがれて来て、しばらく筑紫の国の伊波比の比売島に住んでいた。そこでい うには『この島はこれでもまだ遠いとはいえない。もしこの島にいるならば、 (夫の)男神が尋ねて来るだろう』と。それでまた移って来てこの島にとどまった。 だから、もと住んでいた土地の名をとってこの島に名付けたのである。」 アカル姫と、天日槍については、記紀・風土記に詳しく記されていますね。 詳しくは、「出石神社」に、くどく転載してあります(^^ゞ とはいえ、この風土記を見ると、「多分、アカル姫のことだろうな」と推理でき るとはいえ、間違いなく、アカル姫のことだ、と確信できるわけではありません。 というのは、新羅からなんらかの事情で流されてきた姫は、アカル姫だけではな いからです。 福島晃著「南島説話の研究」では、 南北朝初期に成立したと推される「椎賢比丘筆記」を引用しています。 それによると、 「震旦国陳大王の娘たる大比留女。七歳でご懐妊。父王怖畏をなし。汝等未だ幼少 也。誰人子有慥かに申すべしと仰せければ。我夢で朝日の光が胸を覆った所、娠 也と申し給えば。皆驚いて。御誕生の皇子ともども空船に乗せられ、流れ着いた 所を領とし給えとて大海に浮かべられ奉る。日本大隈の岸に着き給う。其の太子 を八幡と号し奉る。依ってこの船の着いた所を八幡崎と名づく。是継体天皇の御 宇也。大比留女筑前国若椙山へ飛び入り給える後、香椎聖母大菩薩と顕れ給えり。 皇子大隈国に留まりて、正八幡身やと祝れ給えり。」 つまり、アカル姫も、大比留女も、「新羅」からまず、九州に流れ着いた女神な んです。 しかも?! この姫嶋神社より東へすぐ、「鼻川神社」がありますが、ここがまた、神功皇后 と関連が深い。 もちろん、大比留女=神功皇后とするのは、聊かいきなりすぎる感もありますが、 一般的には、「八幡大菩薩」とは応神天皇のことですし・・・。 応神天皇の母親といえば、神功皇后のことだとしてよいかと。 しかも、姫嶋神社のご祭神がやってきたのは、「応神天皇の時代」(いや、渡来 の年代にこだわるなら、オオヒルメがやってきたのが継体天皇の時代ということ にも注目せざるを得なくなり、そうすると、オオヒルメ=神功皇后にも矛盾が出 るんですけどもね(T_T))。 この神社のご祭神が、「大比留女」ひいては、神功皇后である可能性も十分ある と思うのです。 なにしろ、応神天皇陵は河内にあります。 九州に辿り着いたあと、摂津〜河内と移動されたと考えても不自然はありません。 ということで、とりあえず、この神社のご祭神を「椎賢比丘筆記」に登場する、 「大比留女」であるとしようとすると、この女性は、太陽の光で妊娠・・・つまり、 夫がいないのに、夫に追いかけられるのをいやがって九州から摂津へ移動した、 という矛盾がでてきてしまいます。 まぁ、「椎賢比丘筆記」が正しければ、大比留女は7歳ですし、空船での航海の 中で、多少の混乱が生じた可能性もありますが。 また、そもそも太陽の光で妊娠したというのが、幼女にありがちな、虚言である 可能性も捨てられないですね。 新しい土地、日本で「太陽で妊娠した」という作り話が、認知され、自分も子供 も神・仏に祭り上げられた。 ここに夫が「僕がお父さんです」と表れたりしたら、すべてがオジャン。 これは、やばい。 と逃げ出した・・・。 という想像も、もちろんできます。 しかし、「夫が追いかけてきてはいけない」という「夫」が、太陽の光そのもの のことだとしたら? つまり、夫とは、「自然=神」だとしたら? 彼女が逃げたかったのは、「夫」からであるというよりも、「国」「国の宗教」 からなのかもしれません。 アカル姫にしても、夫から逃げ出したのは、「夫よりずっと格の高いはずの姫を 夫(天日槍=王子)が粗末に扱ったから」という、まぁ、つまんない夫婦喧嘩が 元で、そんなに必死で逃げ回らなくてはいけない理由はありません。 姫が逃げ出したかったのは、もっと他のものからだ、という想像は強ちはずれて ないように思います。 さて、大比留女命は、「空船」に乗って流されました。 うつろ船に乗って流されてきた女人の伝説は、少なくありません。 淡嶋神社に伝わる「淡島様の功徳縁起」でも、それは語られています。 また、澁澤龍彦によりますと、「兎園小説」にも、茨城県原やどりという海岸に も、うつろ船に乗せられた女性が漂着したということが記されているそうです。 それは、享和三年のこと、神功皇后の時代から随分、時は流れてしまっています が・・・。 ただ、潮流のことを考えると、中国→九州→和歌山→茨城というルートは、ぴた りとくるんだそうです。 そう、黒潮の流れですね。 つまり、もしかしたら、少し前までは、中国からはるばる、九州・和歌山を経て、 茨城へと流された、うつろ船の女性がたくさんいたのかもしれません。 そのうちの一人が、大比留女であり、淡嶋様であり、兎園小説のうつろ船の女で あるのかもしれません。 うつろ船とは、生きる者を乗せるための船ではなかったでしょう。 なにしろ「うつろ」。 外へ出られないようにした船なのですから。 乗っていたのは死人か、流罪にされた罪人でしょう。 大比留女の逸話はそれを裏付けていますね。 ただ、もう一つ、考えられることがあります。 和歌山から旅立った、補陀洛渡海船。 補陀洛渡海船もまた、「うつろ船」の一つでしょう。 補陀洛(常世)に辿り着くまでは、外へ一歩も出ることができないようにされて いたのですから。 その補陀洛渡海船も、やはり、同じルートで茨城に辿り着いたと考えられます。 うつろ船の人物。 罪人なのか、常世を夢見た高僧なのか。 どちらにしても「常人」から見れば、何か畏怖の念を感じさせるものだったので しょう。