祭 神:美具久留御魂大神 天水分大神 国水分大神 水波廼米大神 須勢理比売大神 木花咲耶比売大神 説 明:ご由緒を転載します。 「崇神天皇(人皇第十代)の時代、、この地に大蛇が多く出没し農民を悩ま したので、天皇は、『これは大国主神の荒御魂の荒ぶなり。よろしく祀る べし』とおっしゃった。その頃丹波の国の氷香戸辺(ひかとべ)の子に、 『玉藻鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底宝御宝主。山 河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。』(日本書紀第五巻崇神紀 六十年條・出雲国風土記)という神様のお告げがあり、 天皇はそれをお聞きになって、活目入彦命(垂仁天皇)を河内国支子(き し)に遣わし当社を祀らせ、美具久留御魂神社と御名を称えなさった。 このお告げは『出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡って きた和爾神(龍神)であり、水泳御魂大神(みくくるみたまおおかみ)で ある』と美具久留御魂大神の御神体を明らかにされたのである。 当神社は歴代天皇からの崇敬厚く、文徳天皇の嘉祥三年(850)には神 階を従五位上に進められ(文徳実録)、光孝天皇は河内大社の勅額を奉納 された。また延喜式には官幣に列せられ当国二の宮石川郡の総社とも称せ られた。 南北朝時代には南朝歴代のご信仰も厚く、また楠木氏は上水分社(建水分 神社・千早赤阪村鎮座)と共に、当神社を下水分社と称し氏神として信仰 したので、戦乱の間にも朝廷は、神社にしばしば参拝されたり、社殿を造 営しなさって治世の安泰をお祈りなさった。 平安時代(1000年頃)正東山という神宮寺が建てられ、隆盛に向かっ た。鎌倉時代末、鎌倉方が赤坂城を攻めたとき、西条城(喜志)と共に、 焼き払われたが、間もなく再建され天正の頃には十七坊に及び香をたく煙 が漂い、儒教の経典を読む声が神山にこだまする一大霊地となっていた。 天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めの兵火を浴び再び灰燼に帰し た。以後数十年間は復興されなかったが、万治元年(1658)から復興 がはじまり、同三年にはほぼ元通りの姿を取り戻した。 明治に入って、氏神を合祀し、厄難消除や縁結びのご神徳、またすべての 生業の守護神として信仰を集め、今日に至っている。 平成六年、氏神崇敬者の篤志により、本殿・摂末社および拝殿・社務所等 の大改築がなされ、同八年完成する。」 住 所:大阪府富田林市宮町3丁目2053 電話番号:0721−23−3007 ひとこと:日本書紀に、美具久留御魂神社のことが記載されてたっけ? と、崇神紀を開いてみると、なるほど。 「玉藻鎮石・・・」の話しが載っています。 ただし、この神託に至るエピソードは少し違います。 「六十年秋七月十四日、群臣に詔して、『武日照命の、天から持ってこられ た神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい』と言われた。 矢田部造の先祖の、武諸隈を遣わして奉らせた。このとき出雲臣の先祖の 出雲振根が神宝を管理していた。しかし筑紫の国に行っていたので会えな かった。その弟の飯入根が皇命を承り、弟の甘美韓日狭と子の鵜濡渟とに 持たせて奉った。 出雲振根は筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差し出したということを聞 いて、弟の飯入根を責めて、『数日待つべきであった。何を恐れてたやす く神宝を渡したのか』と。これから何年か経ったが、なお恨みと怒りは去 らず、弟を殺そうと思った。それで弟を欺いて、『この頃、止屋の淵に水 草が生い茂っている。一緒に行って見て欲しい』といった。弟は兄につい て行った。これより先、兄は密かに木刀を造っていた。形は本当の太刀に 似ていた。それを自分で差していた。弟は本物の刀を差していた。淵の側 に行って兄が弟に言った。『淵の水がきれいだ。一緒に水浴びしようか』 と。弟は兄に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端におき、水に はいった。兄は先に陸にあがって、弟の本物の刀を自分に差した。後から の弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合うことになったが、弟は木 刀で抜くことができなかった。兄は弟の飯入根を斬り殺した。時の人は歌 に詠んで言った。 ヤクモタツ、イヅモタケルガ、ハケルタチ、 ツヅラサハマキ、サミナシニアハレ」 ここに、甘美韓日狭・鵜濡渟は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。 そこで吉備津彦と武渟河別とを遣わして、出雲振根を殺させた。出雲臣ら はこのことを恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。丹波の氷上の 人で名は氷香戸辺が、皇太子活目尊に申し上げて、 『私のところの小さな子供が、ひとりで歌っています。 水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。 力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の宝。宝の主。山河の水の洗う 御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の主。 これは子供の言葉のようではありません。あるいは神が取り憑いて言うの かもしれません』 といった。そこで皇太子は天皇に申し上げられた。天皇は勅して鏡を祀ら せなさった。」 私が持っている日本書紀は、現代語訳なので、ちょっと分かりづらいです が、つまり、 「水草の中に沈んでいる玉のような石・・・」が、「玉藻鎮石・・・」なん でしょう。 つまり、出雲の神を祀らなくなったことで、丹波の子供に神が取り憑いて、 その神を河内で祀った。 ということになります。 な〜〜〜じぇ〜〜〜〜〜??? ま、それはよいとして。 この出雲振根命とその弟の飯入根の戦い。 よ〜く似た物語、というより、自分は木刀を用意しておいた上に、相手の 刀を奪い、丸腰同然の相手を斬り殺すという物語は、古事記にも出てきま す。 しかも、殺されるのは、「出雲建」。 出雲建を倒した後、倒した人物が唄った歌は、 「ヤツメサス、イズモタケルガ、ハケルタチ ツヅラサハマキ、サミナシニアハレ」 イズモタケルに掛かる枕詞(?)が違うのみでほぼ一緒。 この時、出雲建を倒したのは、誰でしょうか? ・・・ご存知の方も多いでしょうね。 クマソを退治し、一躍時の人となった、倭建命その人なんです。 面白いのは、日本書紀では、殺されるのは、「朝廷寄り(朝廷に宝を奉っ た)」であるところの、飯入根(和歌では、イズモタケル、と呼ばれてま す)であり、倒すのが、朝廷に反逆する出雲振根であること。 古事記では、倒すのが、天皇の息子であり、殺されるのが、朝廷に反逆す る、「出雲建」であるということでしょうか。 つまり、ここで推理できるのは、 ・実は、倭健って、倭の英雄じゃなくて、出雲の英雄じゃん? ということか、もしくは、 ・相手をだまして木刀をとらせ、自分は真剣をとった上で、相手を斬り殺 した卑怯な人間は実際にいて、この物語は結構有名だった。 ということになってくるかと思います。 ・・・・・後者かなぁ? ただ、不思議なのは、この「太刀・真剣取換え神話」は、英雄の神話にす るには、ちと卑怯すぎるんですよね。 なんで、それを倭建の物語にしたか。 日本書紀における「日本武尊(やまとたける)」と、古事記における「倭 建尊(やまとたける)」は、かなりイメージが違って、前者が非の打ち所 のない優等生なのに対し、後者は乱暴者・いたずらっ子のイメージが強い んですよね。 そう、ちょうど、出雲国の基盤を作った、素盞鳴命にちょっと似てるかな。 それを考えると、倭建命と出雲の関係というのも見逃せないのですが。 素盞鳴命というキーワード抜きに、倭建命と出雲の関係は、今のところ、 何も見出せないんで、ここまでにしときましょ〜。 それでは、最初の疑問。 出雲の神の怒りを、丹波の人の神託で、河内に祀ることで鎮めた。 なぜ? 出雲の神が怒るなら、出雲の人に取り憑いて、出雲に祀るべきではないの でしょうか? ここで整理すると、 出雲大神の怒りの原因は、出雲の人々が出雲大神を祀らなかったから。 出雲の人々が、出雲の神を祀らなくなったきっかけは、 1.出雲大神の宝を大和朝廷に奉ることをよしとしなかった出雲振根命が、 2.出雲大神の宝を欲しがった大和朝廷に、 3.殺されたから。 ということですよね? つまり、出雲の人々は、出雲振根命が殺されたことで、出雲大神のこ とを見くびったのでしょうか?それで、祀らなくなった? だから、河内に蛇をたくさん出没させ、河内の人を恐れさせた?? そんな筋違いな!!! 河内に蛇を出没させたなら、河内の人々に何かを言いたかったのだと 考える方が自然でしょう。 つまり、考えられるのは、その「出雲の民」と「河内の民」は、実は 同じだった、ということです。 そして、「神託を受ける人」が、丹波に存在したことは忘れられませ んよね。 丹波は、出雲から河内へ来るには、ちょうど通過地点ですから。 つまり。 この時代、出雲の人々は、丹波を通り、河内に移動して来たというこ とがあるんじゃないか、と。 この美具久留御魂神社を祀った人々は、出雲を出自とするのでは? そう、考えると、ですね。 実は、私の産土の神様は、この美具久留御魂神社なんですよ。 少なくとも、私の子供の頃、この神社は広い広い氏子地域を誇ってい たように思います。 そして、この近所は私達の遊び場所でもありました。 さて、この神社のそばに、現在でも「毛人谷(えびたに)」という地 名があります。 もし、出雲〜丹波〜河内支子というルートで人々が渡ってきたという のが、単なる妄想でないのなら、 この地名について、改めて考えてしまうのですが・・・。 ***後記*** 丹波からは少し出雲に近い、美作に、化生寺があり、九尾の狐が化け た殺生石のかけらが飛んできた伝えられています。 九尾の狐は、何千年と生きた狐で、中国では楊貴妃や妲己という美女 に化けて国を狂わせた魔物です。 そして日本に渡り、玉藻の前と呼ばれる美女となって、鳥羽天皇の寵 愛を得たのです。 この狐が美具久留御魂神社の神宝ともいえる鏡と同じ名「玉藻」と名 乗ったのは偶然でしょうか? 玉藻鎮石は鏡でしょう。 しかし、その名を見ると、この鏡は、「玉藻」を鎮める呪物ってこと ですよね? では、玉藻とは? また、この神社を創建したのが、活目入彦、つまり垂仁天皇であるこ とも気になります。 「入彦」が、入り婿になったという意味なら、「活目」は「い・久米」 久米族……縄文民族の婿になったのかと。 彼の息子は、「五十瓊敷入彦命」「い・丹敷」。 彼が造った日本最古の池である狭山池は、丹敷戸畔の本拠地にありま す。 丹敷戸畔も女系ですから、縄文民族じゃないかと思うんですよ。 つまり、垂仁天皇は、土着の縄文民族と、平和に共存した弥生人だと 私は考えています。 彼が、「鏡」を持ってこの神社に何かを鎮めたというのは……。 垂仁天皇が持ち込んだ、製鉄あるいは製銅の技術でもって、玉藻と呼 ばれる何かの怒りを鎮めたという意味に受け取れば、玉藻とはこのあ たりを治めていた女首長じゃないかなと。 彼女に製鉄の技術を伝えることで、共存を許されたことの暗喩が、こ の物語だと考えると、ごくごく自然です。 出雲と言えば、たたら製鉄ですしね。 同じ美作には出雲の神である味耜高彦根命を祀る御鴨神社もあります し、製鉄で栄えた金持郷もあります。 そして金持郷の金持神社創建には出雲神官が深くかかわっているんで すよ。 さらに、南朝にも……とくれば、楠木正成公ともつながる。 出雲の宝ともいえる製鉄技術が、丹波や近畿に先着していた縄文族を 平定するために使われた。 しかし、そうなると、出雲でのいさかいがちょっと気になりはします。 美具久留御魂神社は楠木正成公の氏神でもありますが、楠木正成にと って兵法の師である大江時親は、土師氏の末裔でもあるんですよ。 土師氏と言えば出雲でしょう? ……いろいろと入り組んでるなぁと。 ちなみに大江時親の邸宅跡は、小高い丘の上にあり、ちょっとした要 塞のように見えます。 さすが兵法の大家。 玉藻の前の殺生石については、「玉雲神社」で詳細をご覧ください。 2020年3月3日 御神体でもある裏山に登拝できると知り、登ってきました。 頂上付一帯にはしめ縄が張り巡らされ、神籬であることがわかります。 一周すると、こんもりした小山のように盛り上がっているのがわかり ますが、これは美具久留御魂神社裏山古墳群の第一号墳のようです。 南が前方を向いている前方後円墳で、全長約58m。この神籬は後円部 分みたいですね。 一般的に、前方後円墳は円墳部分に被葬者を埋葬しますから、ここに 神籬が作られるのは、正しいってことになるでしょう。 前期古墳時代のものだそうですから、被葬者は大和朝廷に近しい人物 だったのでしょうか? 古墳群は4基。 神籬には鳥居があり、内部は奥神籬 天神奉斎所だそうです。 天神。 主祭神の美具久留御魂大神は、大国主命の荒魂となっているのですが、 もし大国主なら、地祇です。 いろいろと奥深い神社ですね。本当に。